かてなちお ― 「まもる」をテーマに生活情報から防犯情報まで紹介します。

Top > 現代に求める鬼平のセンス

皆様、ご機嫌如何ですか?閂屋の北野邦彦です。めっきり、肌寒くなりましたが、風邪などひいていませんか?今年もインフルエンザといった厄介な風邪もありますので、気をつけたいですね。さて、寒くなってくると思い出す事って、皆様、おありだと思いますが、私もあります。それは「時代劇」です(笑)

時代劇の撮影は冬が多い気がします。私見ですが、汗だくになる夏の撮影が、衣装も厚い、時代劇には合わないからでは?と、思っています。情緒もあるのでしょうが「必殺仕事人」も冬に放映が始まるのは、偶然じゃないでしょう。時代劇も様々あり、全く興味を覚えない人もいれば、誰々が主演の、あのシリーズと、贔屓にされている方もいらっしゃると、思います。

よく○○時代と○○時代は似てる、と、云われます。社会情勢が似通った状態で、政務につく人物同じように、英邁だったり愚鈍だったりと、似た状況は、まま、生まれます。どうも、我々は教育のせいか、世の中は時間をえて、じょじょに、右肩上がりな成長を遂げてきたかのように思うのですが、実際は”円環”してる感じがしますね。例えば、平成の現代。江戸期末期に入ろうとしていた1700年代、時代劇の「暴れん坊将軍」で、有名な「吉宗」の辺りからでしょうか?

歴史に精通していな方でも「○○の改革」あるいは、改革をした人というのが吉宗のイメージではないでしょうか?「目安箱」で市民から公平な意見を聞き「赤ひげ」のモデルとなった「小石川養生所」。無料の医療施設で、貧民救済の一環を担っていました。吉宗はかなりの名君と、思ってしまいますね。真相は・・ご自身でお調べになってみられたら、面白いかと思えます(笑)

要するに、江戸期のこの時代、都市生活の発展による文化、経済の発展と、富の格差から起こる貧困層と富裕層の二極化問題。天変地異による食料問題が、幕府の頭痛の種だったんです。今日、よく耳にするような話ではありませんか(笑)ちなみに「百姓とゴマのあぶらはしぼれれば、しぼれるほど」といったのは吉宗のブレーン「神尾春央」の言葉です。つまり、重税で幕府だけが、潤うというシステムです。

こういった話も現代にからめて、細かく書いてみたいのですが、今回のかてなちおは、吉宗と同じく、時代劇のヒーロー「鬼平犯化帳」で有名な「長谷川平蔵宣以」を取り上げてみたいと、思います。平蔵を通じていいたいのは、行政に携わる人間に求められる「平衝感覚」と、いいましょうか、学問だけでなく、よく世の中を知っている、知る目を持つ事だと、いう事です。

彼のような役人が1人でも増えたら、今日ももっと、過ごしやすい、安心出来る世の中になるのではないかな?と、思っています。犯罪の減少が、社会の安定につながるのは、いつの、時代も同じですしね。

長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶあつ)は、延享2年(1745年)~ 寛政7(1795年)まで生きた実在の人物です。幕府の旗本、役職は火付盗賊改役でした。劇中でも語っている通り「最後の軍役」を自負する武官でした。

武士も、安定した世の中になると、たとえ、罪人であっても、自らの手を汚して殺す事を嫌い、名目上の「浪人」として代々雇っている”形”にした「山田浅右衛門(世襲)」に介錯をさせていた程、平安貴族並に「死穢」嫌った幕閣とは、一線を画す存在だと、お分かり頂けるかと思います。

今日でも軍事問題と真正面から向き合わない”インテリ”が多々、いらっしゃるでしょう?こうした「防衛と軍事」は日本人エリートの最大の問題なんです。平蔵を通じて、この問題も語ってみたいのですが、また、いずれかの機会にします(笑)

要するに「自衛隊」も「軍隊」ではないが、日本に所属している組織なのに”かたち”がはっきりしていない辺りが、全く同じと気付きませんか?法で明確にしない方が、暴走の恐れが、あると思うのですが・・インテリ達は「シビリアンコントロール」という概念も、知らないとみえますね~私には(笑)

長谷川平蔵の功績は

1:関八州を荒らしまわっていた大盗、神道徳次郎一味を一網打尽、等々。
2:寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案、石川島人足寄場の設立。

本来の職務である、1:火付盗賊改の功績と、役人とての2:の功績に分けられると思います。勿論、1:も官警として立派な方だったな~と、想像出来ますが、今回取り上げたいのが2:。優れた観察眼が随所に活かされています。では、2:で登場する「人足寄場」とはなんでしょうか?

石川島人足寄場、正式には「加役方人足寄場」といいます。加役とは、火付盗賊改の事で、人足寄場は、犯罪者の更生施設です。農村を捨て、江戸に流入してきた元農民や渡世家業の無宿人、軽犯罪者を収容し、社会復帰させるために、職業訓練をする、教育刑型の刑務所の世界でも、先駆的な試みがなされた、画期的な施設だったのです。

弱者再構成施設の設置を、上司である「老中首座、松平定信」に申請し、許可を得て、建築しました。大工、左官等、生計を立てる技能を教え、軽作業を行わせ、賃金を支払い、賃金を強制的に貯金させ、出所の際に起業資金として与え、店舗、田畑のあっせんもしたという、世界史的にみても、画期的な発想、試みがなさていました。お上にも、情けありって感じで、ようござんすね~(笑)

平蔵は若い頃「本所の銕」と呼ばれた無頼の徒(ヤクザの類)だったようで、社会の底辺に下駄を預けていた時期の経験から生まれた、発想なのか、彼個人の資質の高さゆえか「軽犯罪者に対する職業訓練所」という発想が生まれたのでしょう。

その根底にある人がなぜ、犯罪に走るのか?「食えない」事の大きさを知り抜いていたからでは、ないでしょうか?「食と職」足りて、人は人らしくあると、私も考えます。

私は平蔵の理念は、立派で尊いと感じます。では、上司である老中松平定信。名君と誉れ高い人物ですが、彼はどう、評価したのでしょうか?かなり、高く平蔵を評価したと、思われがちですが、定信の著書「宇下人」に「功利をむさぼる山師」とはっきり、批判しています。名君たる人がナゼに?と、思ってしまいますが、定信には理由がありました。理由となった背景を見てみると・・

人足寄場が創設された翌年の寛政3年(1791)、幕府が悪銭を鋳造したために銭相場が下落して物価が高騰しました。老中の定信は、良貨を鋳造して銭相場を上げることは、思きもしませんでした。

こうした、政府の経済センスの無さ、は「朱子学」という宗教的なエリート思想と、経済そのものを、理解しようとしない2つの理由が、江戸幕府の最大の欠点です。今でも「お金の話は汚らわしい」と考えがちな部分があります。これこそ、朱子学的な影響の悪癖です。

定信の祖父にあたる吉宗の時代、目安箱に「山下幸内」が寄せた諫書は、内容は様々ありますが、倹約令に基づく、緊縮財政政策の批難が、ありました。内容を要約すれば、

将軍家が率先して国庫に金を溜め込めば、天下の万民は困窮する事になります。昔、豊臣秀吉は天下を取って以来、二回も御金蔵(中央銀行に当たる物)を空にしました。それは、金銀を国家が溜め込むのは、有能な士を牢に閉じ込めるのと同じだから、天下に金をバラまくのだと、語りました。天下の金銀は将軍のものですから、いざとなれば手元に集めれます。普段は流通させておくのが、よろしいです。」

近代経済学の祖、ケインズの160年前に、同じような事を言ってる日本人がいたのです(笑)江戸の商人は為替を使っていましたし、世界最初の先物取引が大阪で行われていたのも、この時代。日本は当時もかなり進んだ、経済大国だったのです。政治に携わる者以外は、経済に明るいという皮肉が、現代にも通じます(笑)

吉宗は、幼少期の不幸により庶民の生活を知っている部分があるので、まだ、歩み寄った政策を打ち出しましたが、純粋培養の定信となると、もう、からっきしダメで、国民生活からみれば、悪政の極みに達します。

同時代の「上杉鷹山」はその年の天候を気にし、不作の心配を我が藩だけでなく、全国の状況を憂いましたが、定信は、地位を活かした強引な手法で米相場に介入し、米を買い上げ、自分の藩のみを救う事に、汲々とした、飢饉での出来事があります。当然、他領は、地獄絵巻の様相・・

領民にとっての名君は、国家にとっての名君ではないという事ですね。地元にいかにお金を落とせるか?が立派な代議士ではない、と、そろそろ我々も気付く時期のはずですが・・・昔の人を笑えないですね。それに、定信は当時、最高水準での教育を受けた、秀才。国家の舵取りも、日本最高の頭脳集団が行っているはず・・悪い意味での相違点が、多々みれるのは、偶然でしょうか?

来週は、こういった八方塞がりの状況を平蔵は、どう切り抜けたのか?に触れたいと思います。法律的には、違反です。ただ、それだけで語れない多くの事柄があります。それを見てみたいと思います。

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