かてなちお ― 「まもる」をテーマに生活情報から防犯情報まで紹介します。

Top > 教育は格差のもと・・・(2)


皆様、ご機嫌如何ですか?閂屋の北野邦彦です。唐突ですが「宿命/運命」の差ってなんでしょう?私も、ある方に聞いて妙に得心がいったのですが「宿命」は”やどし込まれたいのち”の意で親・兄弟と変える事の出来ない命の関係。



運命」は”はこぶいのち”で伴侶・友人といった、自分の運び次第で変える事の出来る命の関係と教えられました。似て非ざるものの典型ですね。この””が自分を変えなくても、奥さんや旦那さんはを変えるといったエゴの原点を生むのでしょうね(笑)



昔から東洋系の人種は、教育に費用をつぎ込む割合が多いと言われています。隣国、中・韓国は優秀な子供が生まれ、金銭的に貧しい場合。親戚一同で教育費を援助するシステムが古えより存在します。その子を出世させ”縁故”に頼るという社会としての悪癖もあるのですが、教育熱の一端を垣間見る感があります。



前回は格差社会の影響は子供が受けると題し、地域の医療助成を中心にみてきました。今回は、更なる格差を生むであろう教育費からその実情と、かてなちお的視点でどう守っていくのか?を語ってみたいと思います。結構、重厚なテーマなので大丈夫かな?と思っているのですがお付き合い下さい。



教育とは各家庭という個々での支援と、学校といった公的支援によって成り立っています。先日「おもな先進国のGDPに対する教育支援の割合」というグラフが公表されました。



 
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グラフからいえる事は、個々の支援は高く、公的支援は低い。先進国の中で、日本は教育に対して公的にもっともおカネをかけない国の一つで、教育費の負担は家庭に重くのしかかっているという結論になります。幼稚園から高校までの15年間、すべて公立に通っても571万円の教育費がかかり、すべて私立の場合、1680万円にも跳ね上がります。その差はなんと約3倍!赤い彗星並みの差があります。



さらに国立大学に自宅通学で4年間通えば合計418万円で済みますが、アパートを借りて私立大学に通うと、4年間で989万円かかります。こうした学費負担は、結果的に親の収入の違いによる大学進学率の格差をもたらしています。将に「格差社会」ですね・・・



更に教育に掛ける費用の差は、ゆとり教育によって没落した公立校とハイレベルであるが学費も高い私立校の格差、もう一つは、ハイレベルな塾や予備校へ通うことができる都会とそれができない地方との格差という図式をうみ、まとめると



富裕層=都会(高水準な様々な教育を受けれる)/ 一般及び貧困層=地方(低水準な公的教育しか受けれない)



専修大学教授の嶺井正也さんは、著書で「県民所得の高い都道府県ほど大学入試センター試験の成績も高く、逆に、県民所得の低い都道府県ほど低い」という傾向があることを述べられています。また、就学援助率と学力テストの間には負の相関関係が見られることも示して、学校選択制では人気校を選ぶ家庭は所得階層が高いのに対して、不人気校に残る家庭は所得階層がそれほど高くないという傾向も示しています。



一部の私立大学では、付属幼稚園や付属小学校から大学までの一貫教育を行っており、付属校に入学すればほぼ全員が大学まで進学できますが、付属幼稚園や付属小学校の学費が非常に高額であり、教育機会格差の象徴であり、また、そもそも付属幼稚園や付属小学校の入学試験では親の肩書きや寄付金の多寡で合否が決まるという問題もあり、これが現実です。



外出した際、あまり豊かに見えない方の方が子供の躾も悪く、親のテーブルマナー、口の利き方を見れば分かる感じです(苦笑)もっとも、裕福な方で、慎ましさをお持ちの方は、ごく僅かだったりしますが・・・どちらにしても、せめて人間らしく振舞って欲しいものですし、それを子供が全て見ている。つまり、彼等の「常識」となるのが怖いですね。



これら二つの格差の共通項は、「どの親の元に生まれたか」によって大きな格差が生まれるという点です。いずれの格差も、最終学歴に大きな影響を及ぼし、日本においては、最終学歴がその人の人生を左右する割合が大きいため、教育格差は世代を超えた格差の固定化につながる危険性が大きいとされています。



こうしたことは、教育機会が親の階層や、教育水準によって左右され、教育格差がさらなる教育格差を生むという負のスパイラルへとつながる危険性を示しています。この事実は、全てが”世襲”となる「封建社会」の復活、現代は中世へと逆戻りし「自由・平等」つまり「基本的人権」の理念は社会から遠ざかっていく事でしょう。現にその足音は聞こていますが・・・



根底にあるのは、経済力という格差が原因です。今日、明日に親の生活水準が飛躍的に上がるといった事は起こり得ないので、かなり深刻な問題ですが、果たしてそれだけが原因でしょうか?



私は「格差」ありきだと思います。昨今「教壇」を設けない学校があるそうです。先生と生徒は「平等」という発想からだそうです。また、運動会等で「等級」は付けないそうです。「差別」につながるからだそうです。こうした考えを肯定はしません。



と、いうのは教える側と教えられる側が同じという事ありますか?先生、生徒という”区別”があるからこそ「礼に始まり礼に終わる」という日本の美徳が守られるのであり、こうした姿勢が失われれば、社会の秩序が崩壊する事に、教育者や保護者は気付かなかったのでしょうか?



また、子供の等級は「知恵」を育むと考えています。あの子に運動で勝てない。なら、自分は何をどうすれば勝てるのか?運動ではなく勉強か?といった一見、他人との競争意識の芽生えのようですが、活きる上で一番大切な、目標設定と、自分との競争「自己練磨」になっているからです。この意識が薄く、TV等の悪影響も手伝ってか、なにかに事付けて「む~り~」と言う子供が凄く増えています。やってから言えって(怒呆)



私はこうした「格差」の問題は単に親の所得からくる問題ではなく、親の「素養」からくる問題だと思っています。先に書いた事を子供はまず親に打ち明けるでしょう。その際、最良の助言を与えるのが親の使命ではないでしょうか?無理という前に、やってみてはと、先を急がず促すのが肝要です。「どうして出来ないの!と親が癇癪を起こさず、子供の出来ない事を「不平等」といった転換する事もなく。何故なら「」とは「木に立って見る」と書き、指標を示すのは難しくありません。高い所から見ているではないですか(笑)



孔子は弟子に「困に苦しんでいても礼節は保てるか?」と質問を受けました。孔子の答えは「かなり難しいが、教育を受けているのであれば」と答えています。これほど、教育とは大事なものであり、その人の品格まで左右すると言っています。職業に貴賎がないように、本来、教育に高低もないでしょう。



最大の教育者はご両親です。今後、教科書等の学習内容は、更に低次元に移行するでしょう。というのは、昨今の社会環境を鑑みれば、単純労働力を求めて「」の育成は、選ばれた一握りだけでいいとしか、思えません。封建社会がそうでしたが、なるべく「無知」な状態の方が支配しやすいからです。無知は人から「考力」を奪います。



マレーシアは英国の植民地でしたが、太平洋戦争の時は日本の植民地でした。マレーシアでは日本人に共感してくれる部分もあったのですが、どうしても許せない事があったといいます。



英国は”愚民化”しようとした。我々が愚民にならなければいい。教育があるから。しかし、日本は我々を”民視”した。我々は愚かではない



と語っていました。辛酸を舐めさせられた、マレーシア人の知恵ある言葉に、救いというか解決方法が濃縮されているように思えます。おカネがないならどうするか?子供より知能が上回っている、大人も勉強して二人三脚で教えるのも、一つの手立てだと思います。同じ人間であるマレーシア人に出来て、日本人に出来ない道理はないでしょう。



むしろ、こうした個人の「知恵」が試される時代になったのかも知れませんね。私には凄く愉快な事に思えます。尤も、他人から私を見たら、そこ抜けのおバカさんに見えているか、知れませんが、愚民視されても、結構!私には教育があります(笑)



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