「禊・和・言霊・穢れ」は日本独自な思想と思われがちですが、世界の神話、伝説を紐解くとそうでもなく、古代においては普遍的な思想だったようで「聖書」などは、こうした思想に沿った行為が多々見受けられますが、今日、ほとんどの民族で”受け入れ拒否”にあい”思想”とはなっていません。
「文明」は「戦争(交流)」を通じて伝えられ、互いに影響を与えます。 「アレキサンダー大王」が東征という「侵略」を行わなければ「ヘレニズム文化」は生まれていなかったでしょう。そうした例は枚挙にいとまがありませんし、それが「世界史」だといっても過言ではないでしょう。
世界における”立地条件”を「地政学」といいます。日本はこれに恵まれているどころか、恵まれ過ぎていました。「侵略」された歴史は「戦後」だけなんて、お隣韓国と比べれば一目瞭然です。”侵略されない事”が「自然」なんですから(笑)「和」といった古い(?)思想が残りやすい「環境」だった事が理由、その(1)です。
その(2)は太子以前から「話し合い」で解決するのが自然=理想と思われていた”ふし”が日本人にはあるという事です。「古事記・日本書紀(記紀)」には原住日本人代表の大国主命(おおくにぬしのみこと)と外来日本人代表(?)天照大神(あまてらすおおみかみ)が「話し合い」で国を譲り受けたと書かれています。実際には武力衝突もあったでしょうし、記紀にもそれとなく書かれています。
同じような例が記紀には多々みられ”おち”は原住日本人・長髄彦(ながすねひこ)と外来日本人・神武天皇(じんむてんのう)が戦いの最後に”同胞”の「証拠(十種の神宝 とくさのかんだから)等」を見せ納得し「話し合い」の上、長髄彦は降伏、諏訪に向かうとなっています。
「記紀」成立は太子の後「持統天皇(じとうてんのう 西暦645~703)」が、中央集権を目指した大和朝廷に都合のいいように創作されたからだと反論を受けそうですが、先の受け入れられた思想の話を思い出して下さい。強要しようとしても国民の感情に合致しなければ、残りません。
つまり、原住日本人、外来日本人の思想背景にある感情を「和」の精神に集大成しまとめたのが聖徳太子であり、これらの思想から「呪術的(宗教的)」な部分が「日本神道」として、今日にも引き継がれています。
多くの宗教が「戒律」という規則を”かたち”にし成り立ち「教化」されますが、特別、教化されなくても自然、道を守っている日本人は世界の奇跡だと思います(笑)
しかし、実際には複数の人が集まり話し合えば、話し合うほど、解決から離れていきます。今日の「道路特定財源」などがいい例でしょう。「利権=欲」が絡むからです。パレスチナ問題等の「思想背景」の戦いも同様、武力を使ってか、法律を使ってかになりますが、必ず「争い」でしか解決できません。
こうなると”複数”ではなく”リーダー”をたて「権限」を持たす代り「責任」も負わす”かたち”でしか、解決できないようになっています。「現実」は「和」の思想の反対でしか解決できないのです。
反面、複雑な問題を”一夜”で解決する事も出来ます。「大政奉還」は一夜で成り立ちました。当時、日本に来ていた仏・英の大使は「我々なら30年かかる事を、彼等は一夜で成し遂げた」と驚きをもって報告しています。日本以外は、こうした場合「戦争」になり”決着”がつくのに、30年程かかるからです。
太子の教えは現実からの「守り」にはならないでしょう。国際情勢、社会を見渡す限りは。あくまで「理想」としかいえません。また、責任所在がはっきりしないという「中空構造」を生み出し「一億総懺悔」に代表されるように、具体性はなく解決から離れる思想です。 この図を「傘連判状(かされんぱんじょう)」といいますが、中央が”空”となっており、責任者をおかない構造となってます。「和=平等」を代表するかたちで「責任所在」を問えないようになっています。
しかし、太子の教えの尊さ、実際に話し合いで解決してきた歴史を持つ民族として考えていきたいと思っています。憲法17条の最後、17条は「一人で解決せず、より多くの人と話し合え」と太子が”念おし”しています(笑)「水と平和は空気のごとし」を支える思想が「和」であり、これを「守る」事が”今”だからこそ、大切なんだと、太子の声が聞こえるようで、意味深ですね・・・